Anseiさんの日記
2013
10月
6
(日)
11:33
本文
山崎豊子が亡くなった。彼女については微妙な思い出がある。
大阪万博の1970年、フジテレビの「おんなの劇場」枠で初めてのカラー作品、「女系家族」5回放送分を監督した。私は32歳になったばかりであった。しかし山崎豊子が原作の使用を拒否して来たのだ。部長でプロデューサーの岡田太郎さんが大阪に飛んで了承を計ったが「横田安正なんて若造監督など聞いたこともない。私の大事な作品を任せることは出来ない」の一点張りだった。岡田さんは計3回「大阪詣で」をして「横田という監督は30歳そこそこだが見どころのある男なので、どうにか許可して欲しい」とねばり、やっとOKが出たのである。
脚本は大御所の山田信夫さんに頼んだ。山田さんも「あなたを全く知らないので過去の作品を見せて欲しい」というではないか。過去の作品から自信作を2本見せたところ、即座に「とても面白かった。是非やらせて欲しい」と言ってくれた。やれやれである、
「おんなの劇場」はスター女優を使うことで有名な番組であったが、主演の3姉妹には、松山容子、北林早苗、土田早苗という中堅女優を起用した、番頭には金田龍之介、女たらしの踊りの師匠には新人の中村敦夫、亡くなった当主の身重の愛人には河村有紀という芸達者ながら余り知られていない俳優を選んだ。制作費は大幅黒字となった。
「女系家族」は私の作品のなかでは商業的に1番成功した作品で朝日、読売、毎日の3紙も揃って紹介してくれた。最終回を私は局内で岡田太郎氏と一緒に見ていた。終わって帰り支度をしていたところ、太郎さんに電報が届いた。1通ではなく7−8枚の束である。「山崎さんからだ」と岡田さん。読み終わると「恐れいりました、だってさ。絶賛だよ。良かったね」というとさっさと立ち去ってしまった。「僕にも読ませてください」と何故か私は言えなかった。あの長い電報に何が書いてあったのか、読まなかったことが今でも心残りである。
大阪万博の1970年、フジテレビの「おんなの劇場」枠で初めてのカラー作品、「女系家族」5回放送分を監督した。私は32歳になったばかりであった。しかし山崎豊子が原作の使用を拒否して来たのだ。部長でプロデューサーの岡田太郎さんが大阪に飛んで了承を計ったが「横田安正なんて若造監督など聞いたこともない。私の大事な作品を任せることは出来ない」の一点張りだった。岡田さんは計3回「大阪詣で」をして「横田という監督は30歳そこそこだが見どころのある男なので、どうにか許可して欲しい」とねばり、やっとOKが出たのである。
脚本は大御所の山田信夫さんに頼んだ。山田さんも「あなたを全く知らないので過去の作品を見せて欲しい」というではないか。過去の作品から自信作を2本見せたところ、即座に「とても面白かった。是非やらせて欲しい」と言ってくれた。やれやれである、
「おんなの劇場」はスター女優を使うことで有名な番組であったが、主演の3姉妹には、松山容子、北林早苗、土田早苗という中堅女優を起用した、番頭には金田龍之介、女たらしの踊りの師匠には新人の中村敦夫、亡くなった当主の身重の愛人には河村有紀という芸達者ながら余り知られていない俳優を選んだ。制作費は大幅黒字となった。
「女系家族」は私の作品のなかでは商業的に1番成功した作品で朝日、読売、毎日の3紙も揃って紹介してくれた。最終回を私は局内で岡田太郎氏と一緒に見ていた。終わって帰り支度をしていたところ、太郎さんに電報が届いた。1通ではなく7−8枚の束である。「山崎さんからだ」と岡田さん。読み終わると「恐れいりました、だってさ。絶賛だよ。良かったね」というとさっさと立ち去ってしまった。「僕にも読ませてください」と何故か私は言えなかった。あの長い電報に何が書いてあったのか、読まなかったことが今でも心残りである。
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