Anseiさんの日記
2013
4月
3
(水)
18:50
本文
大宮浩一監督は現在上映中の「季節、めぐり それぞれの居場所」に見られるように介護、ケアの現場を、東日本大震災の被災者の現実を、一貫してテーマに取り組んできたドキュメンタリー作家である。なぜ彼がフラメンコダンサー長嶺ヤスコを取り上げたのか?私の推測では、福島出身の長嶺が100匹以上の捨て猫、捨て犬を自費で介護する姿に大震災にたいする監督の思いがダブったのであろう。この映画を見て確かなことは大宮監督の関心は踊り手としての長嶺ヤスコにはなく、ヒューマニストとしての生き様に集中していることである。映画公開初日のステージ挨拶で長嶺は「大宮監督は私の日常生活ばっかり撮っていて私の踊りには全く関心がなかったみたい」と言って笑いを誘っていたが、恐らくこれは本当の事だったろう。映画のパンフには「激しく踊る舞台上の姿とは対照的に100匹以上の猫や犬と暮らし、静かに油絵を描くその日常を通し、生きる意味を問う」内容となっている。フラメンコダンサー、芸術家としての長嶺ヤス子を描くのではなく、「ここに風変わりなおばさんがいますよ」という切り口・・・私は市川崑監督の「東京オリンピック(1964)」を思い出した。
「東京オリンピック」はスポーツに全く関心の無い市川昆さんが異星人の目を透して描いたオリンピックの映像記録である。「地球という星に住む人間という不思議な生き物たちは何故かスポーツと呼ばれる“擬似戦争行為”に血道を上げており、4年に1度、莫大な金と労力をかけた“オリンピック”という大会を開く。しかし、彼らにカメラを向けるとこれほど面白い被写体はない」とばかりに、アメリカの肥った射撃競技者が銃を構えるたびに風船のように丸く膨れ上がるほっぺたをこれでもか、これでもかと映しだした。この映画は日本中のスポーツ愛好者から顰蹙を買ったが私はそれなりに楽しめた。市川崑の異星人の目が地球の人類にたいする確かな“批評”を形成していたからである。
手弁当で作った「裸足のフラメンコ」と国の威信をかけて制作された大作「東京オリンピック」を同じ土俵の上で比較するのは適切でないかも知れないが、監督の対象に向けた眼差しが似ている気がしたのである。しかし市川昆がターゲットにした人類全般と大宮浩一監督がターゲットにした長嶺ヤス子という個人には大きな違いがある。
長嶺ヤス子は踊りに命をかけている生身の個人である。彼女から踊りを取り去ったら何も残らないに違いない。ドキュメンタリー作家が芸術家を描く場合、芸術そのものに真摯に向きあうのが義務と私個人は考えている。踊り抜きの長嶺ヤス子を描くことは考えられないのである。その意味で「裸足のフラメンコ」は私の嗜好とは離れた作品だが、長嶺ヤスコ子を1人のおばさんとして見れば、とても面白い作品に仕上がっているのは確かである。東日本大震災に関して長嶺は「大震災があってみんなが親切心をだすのは分かるけど、人間て、そんなに親切じゃない。かわいそうな人は大勢いるのに、それには目を向けないで、一時、大騒ぎする。だから私は特に何にもしない。犬や猫は誰も助けないから私が助けるしかないの」と語っている。この発言は大宮監督にはショックだったに違いないが、そのまま映画で使っている。こうした正直さには好意を持たざるを得ない。
大宮浩一監督の弱者にたいする暖かい眼差し、真摯な思いは良く分かるのだが、「長嶺ヤス子 裸足のフラメンコ」にかんする限り“隔靴掻痒”の感が残る。
監督が追求するテーマに長嶺ヤス子という主人公はややミスマッチではなかったのか、というのが私の率直な感想である。
*「長嶺ヤス子 裸足のフラメンコ」は新宿K's cinemaで上映中。
「東京オリンピック」はスポーツに全く関心の無い市川昆さんが異星人の目を透して描いたオリンピックの映像記録である。「地球という星に住む人間という不思議な生き物たちは何故かスポーツと呼ばれる“擬似戦争行為”に血道を上げており、4年に1度、莫大な金と労力をかけた“オリンピック”という大会を開く。しかし、彼らにカメラを向けるとこれほど面白い被写体はない」とばかりに、アメリカの肥った射撃競技者が銃を構えるたびに風船のように丸く膨れ上がるほっぺたをこれでもか、これでもかと映しだした。この映画は日本中のスポーツ愛好者から顰蹙を買ったが私はそれなりに楽しめた。市川崑の異星人の目が地球の人類にたいする確かな“批評”を形成していたからである。
手弁当で作った「裸足のフラメンコ」と国の威信をかけて制作された大作「東京オリンピック」を同じ土俵の上で比較するのは適切でないかも知れないが、監督の対象に向けた眼差しが似ている気がしたのである。しかし市川昆がターゲットにした人類全般と大宮浩一監督がターゲットにした長嶺ヤス子という個人には大きな違いがある。
長嶺ヤス子は踊りに命をかけている生身の個人である。彼女から踊りを取り去ったら何も残らないに違いない。ドキュメンタリー作家が芸術家を描く場合、芸術そのものに真摯に向きあうのが義務と私個人は考えている。踊り抜きの長嶺ヤス子を描くことは考えられないのである。その意味で「裸足のフラメンコ」は私の嗜好とは離れた作品だが、長嶺ヤスコ子を1人のおばさんとして見れば、とても面白い作品に仕上がっているのは確かである。東日本大震災に関して長嶺は「大震災があってみんなが親切心をだすのは分かるけど、人間て、そんなに親切じゃない。かわいそうな人は大勢いるのに、それには目を向けないで、一時、大騒ぎする。だから私は特に何にもしない。犬や猫は誰も助けないから私が助けるしかないの」と語っている。この発言は大宮監督にはショックだったに違いないが、そのまま映画で使っている。こうした正直さには好意を持たざるを得ない。
大宮浩一監督の弱者にたいする暖かい眼差し、真摯な思いは良く分かるのだが、「長嶺ヤス子 裸足のフラメンコ」にかんする限り“隔靴掻痒”の感が残る。
監督が追求するテーマに長嶺ヤス子という主人公はややミスマッチではなかったのか、というのが私の率直な感想である。
*「長嶺ヤス子 裸足のフラメンコ」は新宿K's cinemaで上映中。
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